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昭和歌謡~J-POP史に残る有名な作詞家まとめ

昭和歌謡~J-POP史に残る有名な作詞家まとめ

長く愛され続けている日本のポピュラー音楽史を彩った名曲を思い出す時、メロディとともに呼び覚まされるのが聴き手の心に残る素晴らしい歌詞です。

力強く背中を押してくれるメッセージであったり、誰にも言えない悩みを言葉にしてくれたり……どれほどメロディが素晴らしくても、この歌詞で歌われているからこそのヒット曲というのは多いですよね。

今回はそんな素晴らしい歌詞を世に送り出した著名な作詞家たちに注目、バンドブーム以降は自作曲で勝負するアーティストも増えて専業の作詞家の数自体は減ったこともあり、主に昭和から平成初期にかけての代表的な作詞家を紹介しています。

昭和歌謡~J-POP史に残る有名な作詞家まとめ

残酷な天使のテーゼ及川眠子

エッセイストやコラムニストとしても活躍する及川眠子さん、Winkの『淋しい熱帯魚』、高橋洋子さんの『残酷な天使のテーゼ』などが代表的な楽曲ですね。

Winkをはじめとしたアイドルへの歌詞の提供も多く、どこかクールな印象の世界観が特徴ではないでしょうか。

難解な歌詞というオファーを受けて、哲学的な歌詞にしたと語られる『残酷な天使のテーゼ』のような世界観も持ち味のひとつで、アーティストのことを深く知りたくなるようなミステリアスさを演出しています。

アニメソングの作詞家としても活躍していたりと、持ち味をいかしつつ幅広いジャンルで活躍する作詞家です。

河童巻き

少女A売野雅勇

シャネルズの楽曲『星くずのダンス・ホール』で、1981年に作詞家としてデビューした売野雅勇さん、翌年の1982年には中森明菜さんの『少女A』が大きくヒットしました。

作曲家の芹澤廣明さんとのコンビも注目のポイントで、『少女A』からはじまり、その後はチェッカーズをコンビで担当、数々のヒット曲を生み出しました。

「催眠」を「わな」、「反射つ」を「はなつ」と読ませるなど、特殊なルビが振られた歌詞も売野雅勇さんの持ち味で、曲のムードをより強調しています。

アイドルからタレント、ロックミュージシャンまで、幅広いアーティストに歌詞を提供する、歴史に名を刻む作詞家です。

河童巻き

Get Wild小室みつ子

小室みつ子さんは1987年にリリースされた『Get Wild』、鈴木あみさんのカバーで知られる『BE TOGETHER』など、TM NETWORKの作詞を多く手がけた方です。

当時はTM NETWORKのカリスマキーボーディスト、小室哲哉さんと合わせて「小室兄妹」としてメディアで取り上げられることもありました。

しかし、実際は2人に血縁関係はなく、たまたま同じ名字だったというのはちょっと意外ですね!

ちなみに、TM NETWORK以外では、accessの『Higher Than Dark Sky』の作詞も担当しており、テクノと彼女の歌詞は相性バツグンですね!

ユウキ

天城越え吉岡治

吉岡治さんは、日本作詩家協会の副会長をつとめるなど、作詞家の業界に大きく貢献した人物です。

東京放送のラジオ番組『夜のバラード』で番組構成と詩を担当するなど、放送作家としても活躍されました。

石川さゆりさんの『天城越え』が代表曲として語られることから、演歌のイメージも強いですが、歌謡曲や童謡、アニメソングなど幅広いジャンルを手掛けた作曲家です。

とくに童謡は注目したいポイントで、『おもちゃのチャチャチャ』や『あわてんぼうのサンタクロース』など、世代をこえて愛される定番の童謡を多く生み出している、歴史に名を刻んだ作詞家です。

河童巻き

港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ阿木燿子

1969年に作詞家としてのキャリアをスタートした、阿木燿子さん。

彼女は1971年に同じく作曲家の宇崎竜童さんと結婚されました。

彼がリーダーを務めていたダウン・タウン・ブギウギ・バンドの『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』の作詞を担当し、その深い歌詞が大ヒットにつながりました!

また、中森明菜さんの『DESIRE -情熱-』などに代表されるように男女関係のかけ引きの表現力、これも阿木さんの書く歌詞の魅力だと言えますね!

ユウキ

勝手にしやがれ阿久悠

日本を代表する作詞家は、と問われて多くの方が阿久悠さんの名前を挙げられるのではないでしょうか。

尾崎紀世彦さんの『また逢う日まで』や沢田研二さんの『勝手にしやがれ』、ピンクレディの『UFO』に都はるみさんの『北の宿から』……日本人の心に残る数えきれないほどの名曲の作詞を手掛け、日本レコード大賞における大賞受賞曲としては作詞家として最も多い5曲、歴代の作詞家による作品の総売り上げは2位といったように、輝かしい経歴を持つ阿久さんは間違いなく日本の音楽史に残る作詞家でしょう。

そんな阿久さんですが、実は最初から作詞家を目指したキャリアを歩んでいたわけではないのですね。

映画の脚本を書きたいという思いで広告代理店に入社、数年に及ぶサラリーマン生活の中で放送用の台本をバイトとして手掛け、その過程で一説によれば「悪友」をもじってペンネームの「阿久悠」が生まれたのだとか。

時は1960年代、おりしもエレキブームの時代でビートルズの来日なども相まっていわゆるグループサウンズのムーブメントが巻き起こります。

放送作家として音楽番組にも携わっていた阿久さんに作詞の仕事が舞い込み、本格的なデビューとなった作品がザ・モップスのヒット曲『朝まで待てない』なのですね。

1970年代以降の快進撃は今さら語るまでもありませんが、昭和歌謡の歴史そのものといっても過言ではない阿久さんの作品は誰もが一度は耳にしているはずです。

そんな阿久さんの作詞方法は、自ら編み出した作詞の方法論「作詞家憲法」における15カ条にて詳しく語られていますよ。

興味のある方は、ぜひ調べてみてくださいね!

KOH-1

川の流れのように秋元康

1980年代から2020年代の現在にいたるまで、第一線で活躍する邦楽シーンを代表する作詞家といえば秋元康さんでしょう。

1980年代中盤以降にアイドルシーンを席巻するおニャン子クラブの全楽曲の作詞を手掛け、2000年代においてはAKB48グループや坂道シリーズの仕掛人として活躍するなどアイドルとの仕事が有名な秋元さんですが、美空ひばりさんの名曲中の名曲『川の流れのように』といったように、純然たる歌謡曲の作詞家としての才能が明確に感じ取れる作品など幅広い分野で素晴らしい仕事を世に残しているのですね。

そんな秋元さんは放送作家としてある程度安定したキャリアを歩んでいたのですが、将来のキャリアに不安を感じていたそうで、1980年代の初頭に作詞家としてアニメソングからアーティストへの作品提供をスタートさせます。

同時に、人気テレビ番組『ザ・ベストテン』や『オールナイトフジ』に『夕やけニャンニャン』といった番組の構成を担当して放送作家としても順調にキャリアを積んでいくのですからすごいですよね。

とんでるずのブレーンとしても注目され、彼らが歌う『雨の西麻布』や『情けねえ』に『一番偉い人へ』といった多くのヒット曲も含めた楽曲群の作詞も手掛けていますね。

2000年代以降のAKB48グループの快進撃は説明するまでもないでしょう。

2013年には阿久裕さんを抜いてシングルの総売上で作詞家として1位となり、秋元さんが手掛けた作品の中で100曲以上がチャート1位を獲得しています。

J-POP史における現在進行形のレジェンドであることは間違いないのですし、AKB48以降の秋元さんしか知らない方は、ベーシストにして作曲家の後藤次利さんと組んだ80年代から90年代のヒット曲にもぜひ注目してもらいたいですね!

KOH-1

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